SOLEIL LEVANT’s blog

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日吉村

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より

 

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下田神社     


日吉本町金蔵寺〜松の川緑道〜下田神社〜下田地蔵尊〜下田寿司(昼食)〜興禅寺〜高田天満宮高田駅

このあたりは下末吉台地の中域にあたり谷もあり平坦面が少ない。
日吉は、「神奈川県橘樹郡案内記」に「日吉丸の古蹟ありしにより起これりというも今其古蹟も何処にあるや詳(つまびらか)ならず」の記録がある。


町名は昔、字宮前にあった日吉(ひえ)(山王)社に由来する。日吉は近江国(現、滋賀県)の官幣大社日吉(ひえ)神社の分霊で山王権現ともいう。

 

「駒ヶ橋」は昔、往来の者が馬を乗り入れて川を渡ったから、あるいは源頼朝がこの村を通過する時、乗馬が急に走り出してようやくこの橋のあたりに止まったから「駒ヶ橋」と名付けられたと伝えられる。


下田は下田町真福寺の下田地蔵尊に因(ちな)んで名付けた。「下田」とは江戸時代の検地制度で上田(じょうでん)・中田(ちゅうでん)・下田(げでん)の区分の下田を意味する。

 


高田は「倭名類聚鈔」(わみょうるいじゅしょう)に「高田郷」、「小田原衆所領役帳」(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)に「高田」の記録がある。

港北区ホームページより


金蔵寺   港北区日吉本町2-41-2 天台宗

 

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清林山仏乗院金蔵(こんぞう)寺と号し、本尊は大聖不動明王、創建は貞観年間(859〜876)。
開基:智証大師・清和天皇で、江戸時代は寛永寺の末寺であったので、別名「国家鎮護道場」という。徳川家康、秀忠から梵鐘を寄進されている。
不動は「日吉山王権現」といわれている。
札所は、関東三十六不動5番、関東百八地蔵85番、准秩父三十四観音3番、横浜七福神の寿老人がある。

 

日吉山王権現由来の碑

日吉は川崎市横浜市港北区にまたがる地名で、世間では慶応義塾が日吉校舎の在地として通っている。
川崎市役所日吉出張所、日吉中学、小学校共に同市加瀬にあって旧日吉村の広がりを示している。
幕末から明治前半にかけてこの地には駒林、駒ヶ橋、矢上、箕輪、鹿島田、小倉、北加瀬、南加瀬、苅宿、木月の十部落があった。明治22年町村制でひとつの村名を決めかねた末、東の三井寺といわれた駒林金蔵寺の裏山に霊験
あらたかな日吉山王権現が鎮座され当寺第31代漢学者岩村真道師により日吉村と名づけられた。
昭和14年横浜市神奈川区編入、昭和16年港北区となり日吉村は消えた。

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寺の奥は台地になっており弁財天など頂上まで祠が多数ある。

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裏山の弁財天
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キリシタン灯籠といわれる
 
キリシタン灯籠

キリシタン灯籠は織部式灯籠ともいわれ、同じものなのか定説はない。
全国に多く存在する。
織部は戦国武将で千利休の弟子で「織部焼き」を残した人物。
織部式灯籠も織部が作らせたものといわれているが、
織部キリシタンであったかどうかも
定かではない。
織部式灯籠がキリシタン灯籠と言われるようになったのは、
大正12年(1923)頃からで、静岡の宝台院の一基に人物像があることから
静岡の教会のフランス人司祭に見せたところ
カトリックの聖人像でローマ法王の法服と似ていると言ったことから
キリシタン灯籠といわれるようになったらしい。
 

静岡の宝台院の灯籠にまつわる話
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静岡宝台院のキリシタン灯籠

家康の侍女ジュリアおたあが信拝していたもので、駿河城内にあった。
おたあは小西行長が朝鮮遠征のときに人質として連れてきた
朝鮮貴族の娘で行長の元で切支丹になり後に家康の侍女となった。
切支丹禁止令でおたあは伊豆大島に流され、
家康の側室になるなら許すといわれるが、拒否した。
そのため新島に移動させられ、
最期をむかえたのは神津島だった。(慶喜を歩くHP)
しかし実際には
「日本発信」1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父の書簡 に、
おたあが神津島を出て、大坂に移住して
神父の援助を受けている旨の文書があり、
その後、さらに大坂から長崎に移っており、ジュリアおたあが神津島
死 亡したことは否定されている。
1972年韓国のカトリック殉教地の切頭山に神津島の村長と
村議会議員らが、おたあの墓の土を埋葬し、石碑を建てた。
その後、おたあは神津島で死んでいないという文書が発見された後、
石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切石山の
殉教博物館内で保管することになっ た。(Wiki
(歴史と素適なおつきあい 静岡県の歴史散歩より抜粋)

この灯籠がキリシタン灯籠の発端だった。

松の川緑道
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ヤモリ

1992年まで「松の川」が流れていた。岸辺に野生植物が咲き、子供の遊び場だった。
今ではすべてが埋められ2,1キロの松の川緑道として整備された。
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下田神社  港北区下田町3−1−4



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下田神社本殿


祭神: 伊邪那美命天照大神、速玉男神事解男命、天満天神
下田神社は、もとは熊野神社があった。
駒ヶ橋村の村社天照大神と、東部鎮守熊野神社と境外末社天満天神社を昭和45年に合祀、下田神社とした。
熊野社、天照大神は宝暦年間(1551-1763)以前の創建といわれる。
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摂社

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庚申様

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大六天弁財天像 元禄14年(1701)
左が蛇で弁財天、右が第六天である。
不二道一勺武哉大六天美哉辯財天諸人神明至正道万福万福」と刻まれている
参考:鶴見川流域のくらし・横浜市歴史博物館



秩父三十三観音霊場第1番
下田子育延命地蔵菩薩が本尊である。
もう一体地蔵があり、この地蔵は各地を巡行した。
明治27年の真福寺地蔵尊天井寄附連名帳によると武州多摩郡、相州津久井郡にもまわっていたことがわかる。八王子にも」千人同心をはじめ片倉、橋本の地名もみえる。
昭和15年くらいまでまわったという。(参照:加藤武雄と一瀬豊・農民文学の扉)
地蔵様の厨子のまわりにはサルボボのような「くくり猿」がおまもりとして
配られたという。
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興禅寺  天台宗   横浜市港北区高田町1799
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薬王殿
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石幢
圓瀧山光明院と号し慈覚大師円仁が仁寿3年(853)開山。
本尊は円仁自ら刻んだと言われる十一面観音と勝軍地蔵尊である。
十一面観音は安産の仏様と親しまれてきた。
たびたびの戦渦で伽藍を失ったが元応2年(1320)当時の領主桃井播磨守直常により再興され
文化3年(1806)22世證淵和尚によって密教造りの本堂に改築された。
明治はじめ「高田学舎」を設立、多くの人が学んだ。

「新編武蔵風土記稿」に、六面に地蔵尊の刻があり考古学者は石の幢の一部で石幢(せきどう)であると、鎌倉時代文保二年直常公寄進。
堂内には本尊十一面観世音菩薩、聖観世音菩薩、阿弥陀三尊、薬師如来不動明王地蔵尊、十王像、七福神等、多くの仏像が安置されている。
山門の高梁には七福神の彫刻がある。
雅楽会は有名で明治時代から続く。(境内掲示参照)

武相不動尊七番、関東108地蔵霊場86番、准秩父34観音霊場27番、港北七福神の寿老人。


高田天満宮  港北区高田西3−25−1
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祭神:菅丞相霊(かんしょうじょうのれい)ー菅原道真
正中二年(一三二五)五月二十五日夜当地申酉の方より光物が現れ、しきりに震動した。
夜に至るも四方昼の如く明るく、光物は遂に当地の山中に鎮り昼夜雷光 乱れ飛び、
人々近づくことが出来なかった。
時に小蛇梅の若木の下に現れ、異香を放って正く天神に観音の垂迹と思われた。
これこそ衆生済度の方便、大慈大悲 の誓なりとて、興禅寺弁珠法印先達となり
榊の枝を取って前に置くと、小蛇は榊枝の上に留まった。
時に領主桃井播磨守直常近く之を見聞し信心止みがたく遂に社を建立せしめ、
当所一帯の氏神と仰いだという。大正六年神饌幣帛料供進社に指定された。(神奈川県神社誌より)

高台にある天満宮、UFOでもきたのだろうか。
考えるに雷が落ちた!ではないか。
稲妻はたんぼに落ちるといい米ができるといわれる。稲妻=蛇、刀剣に例えられる。
神社はよく鳴動するというが。
景色のいいところである。

近くに高田小学校がある。「天神原」(てんじんっぱら)と呼ばれている。
天満宮・高田小学校あたりは桃井播磨守直常の居館があったという。


                          




桃井直常(もものいただつね) 2度行方不明になった武将
津毛城を築城したといわれる。
1333年の鎌倉幕府倒幕に参加し。その後足利尊氏につく。
康永3年(1344)足利幕府が混乱したとき(感応の擾乱)では
足利尊氏の弟直義(ただよし)につき、畠山国清とともに
感応2年(1351)直義の実権掌握に貢献するも、直義が失脚。
そして急死し、足利直冬らと南朝につく。
南朝が疲弊すると桃井直常は孤立するが、尊氏と戦い続けた。
応安元年(1368)桃井がとったといわれる松倉城(富山)で
当時の守護越中守斯波善義将に破れ応永3年(1370)に
斯波義将らと富山の長澤で戦い飛騨に逃れたという。
応安4年(1371)飛騨の国司姉小路家綱の援助で越中に侵攻、
五位荘で破れその後の消息はわからない。
富山、群馬、神奈川に五輪塔や塚を残す。

越前丹生で生まれた孫の桃井直栓(幸若丸)は幸若舞創始者といわれる。
幸若舞は歌舞伎、能の原型である。