SOLEIL LEVANT’s blog

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徳川家康公(真田幸村氏)

日光東照宮 Nikko Toshogu


日光東照宮 Nikko Toshogu [4K60p]

日光東照宮は、栃木県日光市に所在する神社。江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現(とうしょうだいごんげん)を祀る。日本全国の東照宮の総本社的存在である。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために、「日光東照宮」と呼ばれることが比較的多い。

 

 

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徳川家末裔が語る

江戸後期には徳川の親戚になって、しかも真田幸貫は老中を務めて幕府を主導しているのです。

こう語る徳川宗英氏は8代将軍・徳川吉宗が創設した「御三卿」と呼ばれる田安徳川家11代当主。独自の視点から『徳川家が見た「真田丸の真実」』など数々の著作を発表している。

家康は戦を嫌う人です。生涯にわたって数々の戦を戦い抜いていますが、自分から仕掛けた戦いというのは、ほぼない。

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50499

 

 

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大阪府堺市の南宗寺

家康は元和2年(1616)4月17日に75歳で駿府城で死んだが、実はこの時に死んだのは影武者で、本物の家康はその11カ月前の大坂夏の陣で、すでに死んでいたというのである。

家康といえば、夏の陣で真田幸村に攻め込まれ、一時は死を覚悟したことは有名である。大坂方の敗北が決定的になった慶長20年(1615)5月7日正午すぎ、茶臼山にあった幸村は、ただ家康の首のみを狙う乾坤一擲の勝負に出た。家康は平野から住吉街道の北を通過して、越前兵の後方へと陣を押し出してきていた。

銃撃戦の中、幸村は前面の敵である越前兵を切り裂くように突き崩して、徳川旗本隊が守る家康の本陣に斬り込んだ。「薩藩旧記雑録」には、幸村は家康の御陣に3度攻めかかり、御陣衆を追い散らし討ち取った。御陣衆のなかには3里も逃げた者もいたと記す。

 そして、家康本陣の槍奉行だった大久保彦左衛門忠教が、「三河物語」に家康本陣の無様さを記している。「厭離穢土 欣求浄土」の宝幢の旗が崩れ、しかも後方に退く家康が、旗奉行を見失ったとある。旗本は逃げて、家康は小栗正忠という者と、たった2人で一時取り残され、死を覚悟した。だが幸村は家康を狙い3度攻めかかったが、前日からの戦いで疲労が激しく、ついに幸村の槍は家康に届かず、家康は命拾いをしたのだ。

しかし伝承では家康はこの戦いで死に、南宗寺に密かに葬られたという。その墓は現に存在しているのである。

大正11年(1922)に刊行された「大阪府全志」巻之5で、南宗寺の寺歴が語られる。その中で、「本堂と庫裡の間に東照宮の廟あり。その傍らにあるは照堂にして、すなわち開山堂なり。堂の床下に無銘の塔あり。安国院無銘塔という。これなん疑問の塔なり。

寺の旧記によれば、元和元年大坂の役に徳川家康は摂津・河内両国の境なる平野に陣せしが、敵雷火を放ちてこれを襲う。いわゆる平野の焼打ちこれなり。家康僅かに免れて葬輿に乗じ、遁れて和泉の半田寺山に至る。たまたま後藤又兵衛基次の紀州より帰り来たれるに会す。基次これを認め怪みてその輿を刺す。彦左衛門驚きてその槍を斫(はつ)る。基次顧みずして去る。而してこれがために家康は戧(そう)を負いて終に起たず。 侍臣密かに遺骸を携えて当寺に来り、第二世本光禅師に請いてこれを照堂の下に斂(おさ)む。時に元和元(慶長20)年四月二十七日なり。戦役平定の後これを駿州久能山に改葬す」と述べている。

死亡日時が、夏の陣の前月で、家康はまだ京都二条城にいる時だが、日時は単なる間違いとみるのだ。

そして不思議にもこれに符合する遺物が、日光東照宮に保存されている。家康が夏の陣に用いた網代駕篭である。木枠に三つ葉葵紋をあしらった豪華な駕篭だが、屋根に槍が貫通した跡が、きれいに残っている。家康を突き刺してできた槍穴跡なのだろうか。大きな謎をはらむ。

 

また、南宗寺には家康の死に関する、別の言い伝えもある。

大阪府全志」また「大阪府 史蹟名勝天然記念物」第5冊(昭和6年刊)によれば、家康が死んだのは、幸村の猛攻をしのいだ後、大坂城に大挙して攻めかかり、いっきに城を陥落させた際のことだというのだ。

その最中、家康は城兵の乱射する弾丸にあたり、この傷がもとで死んだ。そこで堺の商人・海部屋ら7人の糸割符商(生糸輸入商)に密旨が下り、南宗寺住職に命じて、秘密裏に遺骸を同寺に葬り、その上に紫雲石を安置した。事実は隠され、ただこの石を神のごとく崇めた。

やがて7人は幕府に願い出て、その紫雲石を日光廟に奉納することを許された。7人はこれを護衛して日光に赴いたが、実は家康の遺骸の改葬が目的だった。この秘密の功労によって、7人は交代で毎年正月、日光に詣でるが、徳川三家三卿の他は許されない、内殿での参拝が特に許された。

このように両著は記す。さらに家康の影武者説が小説などで語られる中で、小笠原秀政が家康の身代わりになって生きたという話もよく言われる。

秀政は信濃松本藩主で、家康の長子・信康の娘を妻にしていた。夏の陣には息子の忠脩・忠真とともに参戦し、5月7日、家康を襲う幸村と激闘を繰り返し、首級47を挙げたが、忠脩は討ち死にし、秀政自身も瀕死の重傷を負って戦場を脱したものの、夕方に死んだのである。まさに家康を必死に守っての死だった。

 この事実を捻じ曲げて異聞が生まれた。この時、死んだのは家康であって、秀政は無傷で、これ以降、家康の影武者をつとめたというのだ。しかし当時、秀政は47歳だった。74歳と老いて、しかも腹が出て甲冑を着用できなかった家康の影武者は到底無理といえた。家康の孫娘を妻にし、さらに夏の陣の武功によって、子孫は改易の危機をたびたび救われた。そんな事実から秀政の影武者説が生まれたのだと思われる。

このように、家康が夏の陣で死んだという異聞は多い。そして南宗寺の墓が本墓とみなされる最大の根拠として、元和9年(1623)7月10日に秀忠が参拝し、その直後に将軍職を譲り、さらに新将軍になったばかりの家光が、就任1カ月もしない8月18日に、南宗寺に詣でたことを挙げる

しかも堺奉行は就任すると、まず拝廟のために南宗寺を訪れ、代々この寺を保護し続けてきたからである。

 https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4820

 

 

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南宗寺 (徳川家康の墓がある寺)大阪堺市

徳川家康の墓は日光東照宮にあるのは有名ですが堺市にある南宗寺には徳川家康の墓があります。徳川秀忠徳川家光も将軍になる際に、ここ南宗寺に来たというのは、史書でものこされてます。

 

 

 


徳川家康の墓 南宗寺 大阪府堺市

大阪府堺市には、大阪夏の陣真田幸村の隊に追われて徳川家康が命を絶ったという寺があります。徳川秀忠徳川家光も半年の間に続けて南宗寺に来たというのは実在の出来事です。

 

 

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江戸城

武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江城(こうじょう)および千代田城(ちよだじょう)が別名として知られているが、江戸時代に広く一般に用いられたのは「江城」であったという。

江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。

徳川家康江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府徳川幕府)が開幕すると、大規模な拡張工事が、特に慶長期のおよそ10年の間に集中的に行われ、またその後も2度ほど拡張工事が行われ、日本の他の城とは比較にならないほどに最大で最強の城となり、およそ300年ほどの間、幕府の政庁、15代におよぶ徳川将軍およびその家臣団が政務を行う場所となった。

将軍の補佐役の老中やその下の若年寄などは月番制つまり月替わり制でそれぞれ数名が担当し、江戸城周辺の屋敷から日々登城つまり出勤した。江戸城に出勤する役方と呼ばれる人々は老中や若年寄以外にも目付・奉行・小姓等々もいた。また江戸城には番方と呼ばれる警護・警備の仕事をする人々も必要で、一日を3分割して3交代制で勤務した。それらを合算すると日中の江戸城には五千人ほどの男性が常駐していたと推算され、さらに大奥には約一千名ほどの婦女子がいたと推算されるので、時間帯により人の出入りや増減はあるにせよ日中は六千名ほどが江戸城内にいたと推算される。

 江戸末期、戦(いくさ)のための城としては使われぬまま江戸城無血開城が行われ、徳川家の人々は江戸城から退出し、そのかわりに薩長の人々が入り、京から天皇が江戸に行幸した折の居所「皇居」となり短期間だが東京城と改名され、その後は皇居、宮城(きゅうじょう)として使われている。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある江戸城の中心部であった天守閣・本丸・二ノ丸・三ノ丸の跡一帯は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9F%8E

 

 

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慶長20年(1615年)6月28日、後陽成天皇の第八皇子である八宮良純親王を猶子とする。元和元年(1615年)7月17日、禁中並公家諸法度17条を制定して、朝幕関係を規定した。また、諸大名統制のために武家諸法度一国一城令が制定された。こうして、徳川氏による日本全域の支配を実現し、徳川氏264年の天下の礎を築いた。

同年、自らの本格的な隠居の城として駿河沼津の柿田川の湧水にある古城泉頭城の縄張り・再整備を命じたが、翌年の病に倒れる直前に中止し、竹腰正信屋敷の改築に方針転換したが、何れも死去により立ち消えになっている。

元和2年(1616年)1月21日、病のため鷹狩に出た先で倒れた。

4月17日巳の刻(現在の午前10時頃)、家康は駿府城において死去した。即夜、久能山に遺体は移された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7

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久能山東照宮 徳川家康 神廟

 

 

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秀吉へ死後授けられた豊国大明神の神号、豊國神社と秀吉の廟所であった豊国廟。

東照宮にも秀吉が祀られるようになっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7